伝統料理を守る、スローフードの考え方

日本のようなことはない

こうした日本の現状を嘆かわしく思っている人は少なくないはず、特に伝統と長年向かい合ってきた職人たちにすればどうしてこんなことになったのかと、愕然としている人もいるのではないか。現代社会がそれだけ多様になったと物は言いような面もあるが、多様性が一極的になってしまっているとも取れなくもない。ただ目の前にある便利さだけを求めた結果であり、罪とも言える。

地方ならではの食事文化が衰退している話は日本に限ったわけではないが、中でも日本が特に著しいのかもしれないと感じる。世界の国々を傍観してみると分かるのが、便利な環境に適応している様は日本とさほど変わらないが、現代ならではの科学的成長面だけを追求するのではなく、その国独自の文化も忘れずに人々は享受しているのだ。受け入れることに疑問を抱くことなく、伝統だから守らなければならないと使命感を少なからず抱いている人もいるくらいだ。

今の日本人にそうした感情を求めるのは間違っているのかもしれない、ただ肝心なことを忘れないようにするためにも今一度原点を見直す必要がある。だがそういった見直しをする際闇雲に物事を俯瞰すればいいだけではない、きちんとした参考例を踏まえて見るとより問題点が浮かび上がってくるのではないか。そうした話をすると、先にあげたスローフードという言葉が浮かび上がってくる。元々この言葉は日本発祥のものではなく、食文化に対してこだわりとプライドを誇示しているイタリアが全ての物語を生み出した起源となっている。

食にうるさいイタリア人

スローフードという地方ならではの食事振興を広めようと活動しているのはイタリアと言われている。この国に訪れた経験がある人はなんとなく理解していると思うが、ここは食文化に対して並々ならぬ情熱とこだわりを持っている。人によってはそこまでしなくても、なんて思うかもしれないがそれこそスローフード振興を支える原動力であり、根底にある郷土料理の素晴らしさと大切さ、そして伝統を後世へと伝達していくことの重要性にも気づける。

もちろんイタリアにとってもチェーン店は存在している、世界的にある種の文化として到来しているお店もあるが、そうしたお店ばかりが普及してしまうと日本のような状況に陥ってしまう。ただイタリアの場合そうした慢性的な表面的な食文化の豊かさを追求しようと考える人達ばかりではなかった。発達する分には越したことはない、ただそれで本来その土地ならではの料理や味付けが衰退するのでは見過ごしておけない、そう考える人達が出現する。それこそ、スローフードという運動が誕生した瞬間でもある。

勘違いしている人もいるという

スローフードの発祥はイタリアで、それを知っている人もいるだろう。ただ言葉の意味とスローフードが掲げている理念と目的を理解していない人もおり、そうした人々はたまに変な質問をすることもある。

  • 例(1):「イタリアでスローフードを取り扱っている店を紹介してくれ」
  • 例(2):「何処にいけば、イタリアで有名なスローフードが食べられるのか」

よくありがちなイタリアで巻き起こる困った質問を紹介したが、こんなことを聞くこと自体が間違っている。付け加えると、スローフードとは食べ物を指しているのではなく概念的な物を意味しているのだ。つまりスローフードとは、

「工業製品ではない、地方ならではの料理を広めるための活動」

というのが正しい意味合いとなっている。単純に言葉の意味だけを考えれば食事のことを指していると勘違いしてもおかしくはない、起源的な意味合いを紐解いていくと本当はスローガンという風に捉えているのが一般的な解釈だ。知らないで発言した人はしょうがないとしても、スローフードを積極的に推し進めようとしている人達からすれば、悲しい現実を目の当たりにするので多少なりとも感傷を覚えてしまう。

日本人にはない考え方

伝統的な料理を根本的に見なおして価値を高める、言葉を述べるだけなら簡単だが実行に移すとしたら並大抵の道のりではない。その国に住んでいる人々が独自の文化をきちんと理解し、利点はもちろん欠点も全て受け入れなければならない。イタリアの人々はそういった事も含め、特にこうした活動が活発的に行われている。日本ではまず見慣れない光景だと思う、食に拘りを持っている人はいてもそれが地方ならではの郷土料理に焦点を絞っている例は極めて少ない。何処にでもある、またあまり滅多に食べられないような高級料理を理想としているような人には野暮とみなされるかも知れない。

イタリアの人々は地方の良さと自分たちの国が古代から築き上げた文化に対して誇りを持っているからこそ広く普及しているが、日本ではそういった意識そのものが低いためあまり効果としては発揮できていないのが現状だ。

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