伝統料理を守る、スローフードの考え方

隔絶たる違いを生み出している

日本にスローフードが襲来してきたのは今からおよそ10年ほど前のこと、到来してきた際には何の話かと思った人もいたはず。業界人からすればこれは使えると感じて積極的に推し進める、企業もこれからはスローフードの時代として宣伝をかけるなど取り組みがなされたと思うが、成果は実を結んでいない。世界規模で知られているからこそこれからの発達具合は大きな期待を寄せるだけの価値があると、そう思えるが思惑通りには行かなかった。実際、この10年程度では社会的認知はもちろん、業界としても運動を行うに際して様々な課題を内包・証明するだけとなってしまった。輸入するだけしておいて、手に余る存在だと見られるようになってしまったのではもはや何のために運動が伝来したのか疑問でしか無い。

それが前述の、スローフードという食べ物が存在していると勘違いしている人を生み出してしまっている。特に地方自治体にとって財政状況が決して芳しくないため、スローフードを推し進めているようだがどうにも説得力に欠ける宣伝をしているだけで、しょうもないようだ。またスローフードの素晴らしさを伝播しようと作家や評論家などの存在がもたらす甘言も誤解を招き、事実と違っていれば必然と運動から遠ざかっている感が否めない。こんなはずではなかったと落胆している関係者の姿が思い浮かぶようだ。

日本人の動機

そもそもスローフードが一種の活動であると理解した人々の参加理由も気になる。イタリアを始めとした世界では、スローフード運動を通して健康になるだけではなく、故国の食文化を保全・伝播するためといった愛国心を持って活動をしている。一方で日本人がスローフードの活動を通して何を求めているのかと言うと、何ともどうでもいいような動機ばかりでしか無い。

日本人がスローフードに求めるもの

  • 美味しいものが食べられるから
  • 有名人になるための関門
  • 知識や情報を得るため
  • 自身の知識や能力を役立てるため
  • 人脈を広げたい

こんな動機でスローフード運動に参加しているという、根本的にここから世界と大きな違いとスローフードが本来になっている役割を誤解している節がある。知識と能力を役立てるというのはなんとなく分かるが、スローフードにおいては既存の価値を再認識して後世に伝達するため、新たに創りだされた情報や知識はここでは求められていない。古いものに興味がなく、自分の能力を活かして新しい文化を誕生させるといった、そんな人もこの運動を本質的に誤解しているという他ない。

これならまだ許せるが美味しいものが食べられるや有名人になるためといった理念を持って参入してきたのは、それはどうしてかと疑問で仕方ない。どうにもこうにも日本人がこうした運動を持ってしてしたいと考えているのは地方と国のためではなく、あくまで自分本位な部分を優先している部分があまりにも強く見受けられる。こんな考えで運動に参加すれば勘違いをして、後から理想と違ったから止めると言われても関係者としては困るの一言だ。求めたいのは分かるが、そうした部分は運動においては不必要な物でしか無い。

ビジネス面での転用禁止?

こうした違いを始め、さらに大きな違いをもたらしているのがスローフードをビジネスとして利用する事を日本では暗黙の掟で禁止しているということだ。イタリアでは非営利団体として活動こそしているが、経済活動そのものを否定しておらず、むしろそうした活動を持ってして人々に生活からスローフードを取り組んでもらいたいと考えているからこそ、団体と地方、そして国が連携して推奨するようになっている。

だが日本ではスローフードはあくまで理念として用いるだけで、ビジネスとして活用することを誰が説いたか分からないが禁止しているというのだ。これも表面上の問題でしか無いが、企業や個人がそうした面で少なからずメリットを求めているのは事実、ただあまりに日本では異質な運動のため容認されて普及するまでには時間がかかる。そうなるとデメリットが多すぎると解釈して企業や個人はドンドン参加を取りやめていくが、こういうところもイタリア人とは異なっている。

ビジネスとしての使用を良しとしないにしても、こうした運動を取り入れることで郷土料理の良さと家族団らんで過ごす素晴らしさを再認識してもらいたいと考えているイタリア人に対して、ただただ利益だけを追随するだけの日本人だとその原動力は天と地ほどの差を生じさせている。

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